東尾修 野球の名選手
プロ野球ライオンズに在籍していた東尾修投手はプロ通算251勝で名選手といえますが、負け数が247敗もあります。プロ野球で負け数が多ければ戦力外通告になりますが、247敗も負け数があっても戦力外通告を受けない理由があります。
1968年和歌山県立箕島高校からドラフト1位で西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に入団します。球団側としては高卒でプロのレベルに達していなかったので、即戦力ではなく、育成選手として考えていました。しかし、1969年にライオンズの主力選手が八百長を行った黒い霧事件が起こり、主力投手が軒並み永久追放されました。その結果、投手不足となり、東尾が一軍で投げるようになりました。勝っても負けても投手不足のため東尾が投げることになり、勝率が3割から4割程度で負け数が増えていきました。
ただ、一軍の実績を積むことで、長いイニングを投げるための体力の配分や内角際どいシュートを投げて、外角のスライダーで打ちとる投球スタイル。内角際どいボールで打者にデッドボールを当ててしまっても動じない姿勢からケンカ投法といわれるようになりました。それによって、勝ち星が増え、負け数が減り、2度の最多勝を獲得するほどの名投手になりました。