日本人なら誰しもが知っている野球選手と言えば、間違いなくイチローの名前が挙がるでしょう。
愛工大名電高校から1991年のドラフト4位指名でオリックス・ブルーウェーブに入団し、1994年に日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を記録します。以降7年連続首位打者を獲得、3度のMVPなどここでは書ききれないほどの実績を残し、2001年にメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍します。
メジャーリーグ移籍後も変わらぬ活躍を続け、10年連続シーズン200本安打、1シーズン262本の安打など不滅の大記録を打ち立て続けます。2016年にはNPBとMLB通算で4257安打となり安打数の世界記録としてギネスに認定されました。同年、メジャー通算3000本安打と500盗塁を同一シーズンで達成した史上唯一の選手となりました。
2007年にはオールスター史上初のランニングホームラン、2009年WBC決勝の韓国戦ではイムチャンヨンから延長10回に日本の世界一を決めるタイムリーを放つなど、記憶にも強烈な印象を与えるイチロー。将来の殿堂入り選手は名選手という表現では収まりきらないほど偉大なプレイヤーとして後世に伝えられるでしょう。
清原和博 野球の名選手
清原和博は、プロ野球界の歴史に名を刻んだ名選手の一人です。中学時代から既に大器の片鱗を見せつけていた清原は、1983年にPL学園に入学、同期には元読売ジャイアンツの桑田投手の存在もあり、PL学園は黄金期を迎えます。甲子園大会では、木製バットで通算13本のホームランを打つなど大活躍し、プロ野球へと進むことよりはどの球団に入るかが注目される中、ドラフト会議当日となります。
大方の予想では読売ジャイアンツから1位指名されると見られていましたが、読売ジャイアンツは清原和博ではなく同僚の桑田投手を指名、記者会見で涙を流すと同時に、二人の間に遺恨を残しました。西武ライオンズに入団した清原は悔しさをバネに、1年めから打率.304、本塁打31本、打点78と驚異的な成績を残し、西武ライオンズの日本一に貢献します。
その後は西武ライオンズの中心選手としてチームを牽引していましたが、FA権を取得した1996年、当時の読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督の勧誘により、念願の読売ジャイアンツ移籍を決めることになります。読売ジャイアンツ移籍後は、下半身の怪我の影響により満足な成績を残せないシーズンが増え、2007年からは仰木監督の勧誘に応える形でオリックスへ移籍、2008年シーズンを最後に引退しました。現役時代に放った通算本塁打数525本は、王貞治、野村克也、門田博光、山本浩二に次ぐ歴代5位の記録となっています。
日本プロ野球のブックメーカーは楽しい
世の中で起こる出来事やスポーツの予想が賭けの対象になっているブックメーカーですが、日本プロ野球も、他のスポーツと同様にオッズがあります。
ジャンルは多岐にわたり、毎日の試合の勝敗や、シーズン終了時の優勝チームを予想するのはもちろんのこと、打者であれば、首位打者、ホームラン王、投手であれば最多勝と言った個人タイトルの獲得予想に加えて、例えば2000本安打を目前にした選手が、今年中に記録を達成できるかと言ったものまで、多種多様です。
プロ野球のブックメーカーはこちらが参考になります。
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ポジティブな記録を予想するばかりではなく、連敗記録や、連続ノーヒット記録がいつまで続くのかなど、ワースト記録を予想するものもあります。
ブックメーカーでは、運営主体の企業によりオッズが提示され、予想が的中すれば賭けた金額とオッズを掛けた払戻金を受け取れますが、そのオッズの設定は、日本プロ野球に詳しいファンが見ても、チームの戦力や、選手個々の能力を考慮した、妥当と思えるような数値で、プロのスコアラー並に、かなりの研究がされていることが分かります。
ブックメーカーのオッズの分析は、海外から日本プロ野球のチームや選手の能力を客観的に見たデータとして、非常に興味深いものです。
イケメン名手 広島カープの菊池涼介選手
昔は男性客ばかりでしたが、今は女性客との割合が半分になる日もあるくらい、女性からもプロ野球は注目を集めています。その要因の一つが、イケメン選手が増えたことです。
スラっとしていてとてもスポーツ選手には見えないような人や、俳優ばりにカッコイイ選手も少なくありません。
女性ファンが急激に増えているのが広島東洋カープですが、中でも人気があるのが守備を見るだけでも価値があるとまで言われている菊池涼介選手です。守備はもちろんのこと、レギュラーとして定着して打率もなかなかの成績を残しているので、男性のファンも多い人気選手です。国際大会に出場する精鋭だけが選ばれる侍ジャパンにも何度も招集されており、球界一の名手とまで言われる守備は、元中日ドラゴンズの谷繁元信氏が現役時代に「グラウンドに犬がいる」とまで言ったほどです。
プロ野球は機械でしか計測できないデータやブックメーカー、メジャーリーグへの移籍など様々な楽しみ方ができるスポーツとなりましたが、イケメン選手に注目して見るのも面白いかも知れませんね。
ランディ・バース 野球の名選手
ランディ・バース氏は、1980年代の日本プロ野球において、助っ人外国人という枠を超えた存在感を放った名選手です。彼が阪神タイガースに与えた影響は、単なる戦力補強の域を超え、球団の歴史そのものに刻まれるほどのものとなりました。中でも、1985年の日本一に向けた原動力としての貢献は、今なお阪神ファンの間で語り継がれています。
バース氏は1983年に阪神に入団。翌1984年にはすでに本塁打王を獲得するなど、日本球界への順応の早さを見せました。そして1985年、阪神打線はいわゆる「バックスクリーン三連発」などで爆発的な破壊力を発揮しますが、その中心にいたのが、4番を任されたバース氏でした。
この年、打率.350、本塁打54本、打点134という圧倒的な成績で三冠王を獲得し、阪神のセ・リーグ制覇、そして球団初の日本一に大きく貢献しました。
1986年にも再び三冠王に輝き、史上初の外国人選手による2年連続三冠王という快挙を達成しました。その打撃技術は、単なるパワーに頼るものではなく、ストライクゾーンの見極めと的確な対応力を兼ね備えた非常に完成度の高いものでした。勝負どころでの集中力と勝負強さには目を見張るものがあり、相手投手からは最も警戒される存在であり続けました。
成績面のみならず、人格者としても知られていたバース氏は、ファンやチームメイト、首脳陣からも深く信頼されていました。試合中には感情を爆発させることなく、常に冷静にプレーを続ける姿は、日本のプロ野球に対する真摯な姿勢を象徴するものだったといえます。こうした姿勢は、外国人選手への見方を変える契機ともなり、以降の助っ人選手たちの評価にも大きな影響を与えました。
バース氏の在籍期間は6年と長くはなかったものの、そのインパクトは非常に大きく、1985年の活躍は阪神タイガースの歴史においても最重要の出来事のひとつです。彼の背番号44は、今でも多くの阪神ファンにとって特別な意味を持ち続けています。ランディ・バース氏は、単なる助っ人ではなく、阪神タイガースという球団に深く根を下ろした、真のレジェンドと呼ぶにふさわしい存在です。